朝の雨が、午後には雪になってしまうような、春がまだ遠く感じられる三月の終り、堂本剛君が仙台まで亜以須(あいす)に逢いにきてくれました。
その日だけ不思議に朝から太陽が顔を出し、
――やはり今日はいい一日なのだろう……。
と私は思いながら、待ち合わせた海岸にむかって出発しました。
車が好きな亜以須は私の膝の上に乗り、窓を流れる風景をじっと眺めていました。その横顔を観察していると興味深げに景色に見入る彼の表情は、少年時代の自分に似ているのではと思いました。
初めて母と二人して電車に乗り、見えかくれする瀬戸内海やミカン畑、鉄橋を渡る時の車輌の音色、トンネルに入った時の薄闇など、少年の私には目にする何もかもがもの珍しく、夢中で窓辺に顔をよせていたものでした。
――犬たちの、この好奇心に満ちた表情はなんて美しいのだろうか。
これは亜以須が成長するにつれ、彼が初めて見る風景に夢中になっている姿を目にして私が感じることです。
前夜、私は妻とその日の遠出の話をしました。
「明日、あの子は初めて海を見るんですよ。どんな顔をするかしら、楽しみだわ……」
「うん、本当だね」
「剛君のことを亜以須は覚えているかしら?」
「それは覚えているさ」
「そうだと剛君も嬉しいでしょうね」
「そうだね……」
海が近づくにつれて、私は亜以須が剛君をちゃんと覚えているかどうか少し心配になりました。
そんな心配は堤防の先で釣りをしていた剛君にむかって亜以須が尾を振りながら走り出した瞬間、吹き飛びました。
剛君の足元で飛び跳ね、彼の手に抱かれ、一緒に砂浜を走る姿は少し嫉妬を覚えるほどでした。
撮影が終り、私と剛君は対談のために市内に戻りました。剛君と別れの挨拶をしている亜以須。彼等を見ていて、一度知り合うことの大きさと素晴らしさを考えさせられました。
夕刻、家に戻ると亜以須はもう寝ていました。足を投げ出し、まるで赤ん坊が安心したように目を閉じています。
――何の夢を見ているのだろうか……。昼間見た海のこと? ひさしぶりに逢った剛君のこと?
私は夕食を摂り、庭に出てお茶を飲みはじめました。やがて背後でドアを引っ掻く音がして亜以須が起き出してきました。ドアを開け、私は彼の顔を見下ろしました。彼も私の顔をじっと見つめ、何かを発見したように庭の中央に出て空を仰ぎました。空には春の星座がめぐっていました。夜風にもどこか草や木の匂いがします。
――あと数日もすれば花たちもいっせいに咲きはじめるのかもしれない……。
私は星々のきらめく様子を見て、昼間の再会のシーンが浮かび犬の記憶力の素晴らしさを思いました。
「君は私なんかよりずっと頭がいいね」
私の声に亜以須が振りむきました。
大きな瞳を見返しているうちに、犬たちは私たち人間の何分の一しか生きられない分だけ、出逢った人や犬や風景を忘れないのではないのだろうかと思いました。
(『ずーっといっしょ。』前書きより抜粋)
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