桜も散った春の終わり、私は西原と二人で少しインテリジェンスを感じるデートをしようと、渋谷の東急文化村に美術鑑賞に出かけた。
渋谷にむかう車中で西原は春雨に濡れる街並を見ながら、まったく関心なさそうに言った。
「イの字先生、何を見に行くの?」
「ミレーだよ」
「ミレーね……。つまらなさそうね」
「つまらないかどうかはみれーばわかるよ」
「つまんない」
「そうかな。そういえば、東急文化村って名前が怪しいものな。文化村って、いかにもニセッぽいよな。ミレーはやめて川崎競馬に行こうか? 今日が初日だぞ」
「雨降ってるから寒そうでイヤだ」
「じゃメンバーを集めて麻雀にするか?」
「それならイイ」
車の前方席で二人の話を聞いていたK君があわてて言った。
「カメラマンも待ってますし、あの、今回のミレーの作品はもう二度と日本に持ってこられることはないそうです。これが最後の日本での公開になるそうです」
「それがどうした?」(伊)
「それがどうした?」(西)
「………」(K)
会場に着いて中に入ると、まあ、こんな雨の中、大勢の人が押しかけていた。
暇な奴が多いんだナ……。
周囲の人間の顔を見てみると、あきらかに私とは人種が違う。西原は? と見ると、これが完璧に浮き上がっている。
――イッヒヒヒヒ、ざまをみろ。
私は嬉しくなって、西原をじっと見続けた。
やがて私たちは、世界の名画と絶讃されている一枚の絵画の前にたどりついた。五、六十人、いや、百人近い人が、その絵の前で名画をくいいるように見つめていた。熱気を含んだ沈黙……。これこそが名画の持つパワーであり、芸術の崇高さなのである。
この人だかりの中で西原が押しつぶされそうになりながら、名画を、口を開いて見ていると思うと、私はおかしくてしかたがなかった。
――オイ、どけ。西原はどこだ? 名画を前にしてもう地べたにひれ伏してるんじゃないか。その哀れな姿を見たい。見せてくれ。
私が人だかりを分けて西原を探そうとしていると……、静寂の中から、かん高い声が会場に響き渡った。
「イジュウインさ〜〜ん」
「はあ?」
「イジュウインさ〜〜ん」
数メートル先、名画の真ん前で、スポットに当った西原が私を振りむいていた。どうしてあれほどの人垣が割れて、私と西原の間に空間ができたのか、今もわからない。
「イジュウインさ〜〜ん」
「は、はい」
周囲の五十人、いや百人近い人間の視線が私に集まった。
すかさず西原が目の前の名画を指さして言った。
「これって、ニセモノじゃないの?」
その瞬間、私は凍りついた。すべての視線が私に集中している。西原がまた声を上げた。
「イジュウインさ〜〜ん。これって、ニセモノじゃないの?」
周囲の視線は絵画にはむかず、すべて私に集中し、私の返答を待っていた。
――なんて女だ……。
私は目を閉じて、深呼吸をして言った。
「ニセモノだとしても……」
そこから言葉がつながらない……。咄嗟に私の口から言葉が飛び出した。
「ニセモノだとしても、ぜんぜん、だいじょうび」
「そうか、だいじょうびだね」
そう言って西原は視界から消えた。
あとには、私を奇人か、変人でも見るような冷たい視線とささやく声がひろがった。
(『ぜんぜん 大丈夫』前書きより抜粋) |