●新刊発売された書籍を中心に、その一部を抜粋してお届けします。お楽しみください

◆まだまだあります、
 立ち読みコーナー

◎ 「ぼくのボールが君に届けば」
◎ 「ずーっといっしょ。」
◎静と理恵子の
  血みどろ絵日誌
「ぜんぜん大丈夫」


 

勇気ある若者たち
伊集院静

 

 ジャイアンツの松井秀喜さんが対談の相手として私を指名してきた。いやはや驚いた。最初、私は断わろうと思った。私にとって野球人、それもホームランバッターには特別の思いがあり、松井選手と清原選手をずっと見てきていたからだ。しかし彼が、おそらく私が逢ってくれないだろうと言っているという話が入ってきた。と言うのは、私は随筆の中で、もうこれ以上知り合いを作らなくてもいい、と書いていた。それは正直な気持ちで、私にはもう充分過ぎる数の知人が全国に居て、その人たちと逢えない程、忙しく生きていた。人は出逢いが肝心と書いたが、それは若い時代のことで、私はもう出逢いに関しては充分だった。それでも、あのホームランを打つ人である。しかも大打者に、逢ってくれないかもしれないと言わせては、彼に失礼だと思った。だが真面目な青年と聞いたから悪影響を及ぼしてはと躊魔した。それまでもプロ野球の若いスター選手と仕事で逢うことはあったが、どの若者にも正直、失望していた。
 ――逢いたいと言っているのだから、逢ってみればいい。あんたは歳上なんだから……。
 友人の言葉に逢いに出かけた。
 これが素晴らしい若者だった。朴訥と語る言葉の中に、誠実と何より品性があった。武豊君と出逢った時に感じたものと共通した、意志の強さがつくってきた品性である。正直な所、私は初対面でこれほど素直に話をする若者に初めて逢った。
「松井君、野球はずっと一生続けていけるものではないと思うのですが、野球が終わった後、どんなことをしたいですか?」
 唐突な私の問いに、彼は少し沈黙したのちに、真剣な目をして言った。
「読書が好きだったのですが、途中から野球だけの日々になってしまいました。野球を無事終えることができたら、何か本にかかわる仕事ができたらいいですね」
 私は一瞬、耳を疑った。彼の表情を見ていて別に作家を前にしていたから口にしたものではないことはわかった。
 ――このような若者がまだ日本に居るのだ。
 私は目の前の若者にいっぺんに惚れ込むと同時に敬愛の念を抱いた。この若者をずっと見つめていこうと思った。彼の生きる姿勢を見ることで、私も少しはまっとうに(今さらまっとうもないが)暮らせる気がした。
 武豊君が世界に挑戦するために日本を出たように、今年、松井選手はメジャーリーグに挑戦した。誰一人にも相談することなく一人で決め、一人でその責任を負うと決意した。私にはできない。人一倍やさしい若者である。一度、いじめにあっている少年への彼のメッセージを読んだ。彼は勇気を持ってむかおう、打ち明ける人がいないなら僕に言ってくれ、と書いていた。きっと何通かの手紙は届き、返事を書いたのだろう。そういう若者だ。
 人一倍やさしい若者だから自分を応援し続けてくれた日本のファンに対して、
 ――命を懸けて戦ってきます。
 としか言えなかったのだろう。
 今の若者の中の何人が命を懸けてなすべきものを持っているだろうか。いや若者だけではない。私たち大人もしかりだ。野球を知らない人までが松井選手を応援している気がする。それはたぶん私たち日本人が失いかけている“生きる勇気”を彼の背中に見ているからではなかろうか。松井選手の顔が変わったと女性たちは言う。そうではありません。彼は元々、とてもハンサムな青年なのです。
(『ねむりねこ』《松井秀喜の軌跡》より抜粋)

 


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